私は今まで4都道府県で看護師をしてきました。
看護師って全国どこでも働けるのでいいですよね( `ー´)ノ
でも、面接で『こんなに転職していて、ここで長く働ける?』って看護部長さんに言われたこともありましたが…(。-`ω-)
今回は私の看護師遍歴のお話☆
愛知県時代
私は卒業した大学の大学病院にそのまま就職しました。
当時、そのまま大学病院に就職する人は1/3程度だったでしょうか…
他の友人は地元に帰る人がほとんどでした。
私は病院実習で『胸部外科』に行った時、そこで働く看護師たちがとてもかっこよく映ったんですよね( ̄▽ ̄)
採血やたくさん並ぶ点滴管理、ドレーン挿入介助や心臓術後の呼吸器管理などをテキパキこなす姿に憧れて配属先を希望しました!
『どうせ、新人のうちから患者さんの精神的支えになれるわけでもないし、だったら新人のうちに技術的要素を習得しよう!』
そこで、いろいろな勉強をさせていただきました。
そこの病棟はちょっと特殊で、心臓の手術が終わるとICUには行かずに、病棟に併設されている『クリーンルーム』という部屋に帰室します。
『クリーンルーム』は大きな空気清浄機が常時稼働していて、中に入るときは入口で消毒されたガウンを着なければなりません。
『クリーンルーム』の担当ナースも胸部外科の看護師です。
出勤すると、看護師の名前の横に担当する病室が書かれているので、それを見て情報収集をするのですが、『クリーンルーム』と書かれていれば、一日中『クリーンルーム』担当( `ー´)ノ休憩時のみ交代してくれます
なので、『クリーンルーム』内の更衣室で手術室ナースが着るような薄い緑色のスクラブに着替えてから業務にあたります。そのスクラブ姿に憧れたものです♪
看護師2年目からは私もその『クリーンルーム』で術直後の患者さんを受け入れるまでになりました。
いろんな経験を積み、それなりに充実感も感じていましたが、私は看護師2年目の冬に退職しました。
アメリカ時代
私は、看護科のある高校に進学しました。
入学時、教科書と一緒にナイチンゲールが書いた『看護覚え書ー看護であること看護でないことー』という本も含まれていました。
イギリスの看護婦、社会起業家、統計学者、看護教育学者。近代看護教育の母。病院建築でも非凡な才能を発揮した。クリミア戦争での負傷兵たちへの献身や統計に基づく医療衛生改革で著名。国際看護師の日(5月12日)は彼女の誕生日である。
引用:Wikipedia
私はこのナイチンゲールが書いた『看護覚え書』の原文を、自分の感性、理解力のもとで読んでみたいと思ったんですよ(;一_一)英語もできない高校生のくせに
そして当時、やはり医学の最先端は『アメリカ』だ!なぜ、イギリスじゃないんだ(-_-;)
と思っていた浅はかな考えの女子高生(-_-;)私のことですが…は、親にこういったんです!
『私、高校卒業したら「アメリカ」に行く!』
看護師のお母さんに…『ちゃんと看護師になってから行きなさい!』と、ごもっともで( ̄▽ ̄;)
大学卒業し、看護師の国試も終わり、
『よし、看護師になった! 私、「アメリカ」留学する!」
やはり母上に『日本の医療事情も知らないヤツがアメリカに行ってどうする!まずは日本の医療現場を知りなさい』・・・ハイ、またしてもごもっとものご意見を頂きまして(-_-;)
ということで、晴れて?看護師2年目の24歳のときに、アメリカのアラバマ州にある英語学校に留学しました( `ー´)ノ☆
アラバマ州立大学には看護科があったこと
州立大学付属英語学校があったこと
物価が比較的安かったこと
日本人があまりいなかったこと
正直、治安がいいところではなかったけど、どこに行っても結局、安全って確保されているわけではなし、金銭的な面を考慮してアラバマ州へ…
日本を離れ、日本の良さを知り、アメリカに住んで日本のダメなところを感じ、アメリカ留学が私の見聞を広げてくれたことは確かです!
いろんなハプニングもありましたが、無事に英語学校を卒業(≧▽≦)
大学の看護科に編入手続きを始めた矢先に両親から『もう資金援助が厳しいので帰国せよ』と・・・
そうですよね、私が看護師2年程度で貯めたお金なんてあっという間になくなり、ほぼ両親が仕送りしてくれていたんですから…( ;∀;)
結局、アメリカでの生活は約1年+αでした。
もちろん、ナイチンゲールが書いた『看護覚え書』を英文のまま読むこともできず帰国
ただ、留学中に英語学校の先生に『アメリカの心臓手術を見てみたい』って相談したら、知り合いの看護師に頼んでくれて一度心臓の手術現場に入らせてもらったことはいい経験になりました(≧▽≦)
東京時代
日本に帰国後、さてどこの病院に就職しようかな?と悩んでいました。
今みたいにネット検索できないので、本屋さんに行って転職用の病院紹介雑誌を購入して調べているうちに・・・
『人生で一度、「上京」って言葉を使いたい!』
とまぁ、安易な考えの元、東京の病院を検索。希望は『心臓外科』。
そして3か所の病院を面接したうちのひとつに決めました。
そこの病院は循環器に特化した病院でした。
私は「胸部外科」にいたことから多少自信があったんですよ、循環器に…
しかし、その薄っぺらい自信は早々にズタズタΣ(゚∀゚;ノ)ノキャー
先輩には約半年名前では呼んでもらえず「アンタ」呼ばわり。
不整脈を質問されて答えられない。
先輩にカルテを投げられ、宙に浮いたカルテをキャッチする毎日。
そこの病院は、東京が地元っていう看護師さんが少なくて、8割ぐらいが他県から来ている看護婦さんだったんですよね( ̄▽ ̄)
だから、看護師寮に入っている人も多くて☆
歳が近い看護師さんと仲良くなり、仕事中も助けてもらったり、仕事が終われば一緒に飲みに行ったり、休みの日はどちらかの寮部屋でずっとゲームしたりと、下っ端なりに仲間ができ、それなりに東京暮らしを楽しんでいました☆
今でも東京時代の友人とは連絡を取っていますよ♪
機会があれば、会うことも(´艸`*)
でも、東京で暮らして約4年…
当時、付き合っていた彼氏が「沖縄」に行くと言い出したんですよね。
実は、私もビルに囲まれている生活に違和感を感じていて、大好きなビールをどこで飲むのが一番美味しいんだろう、幸せなんだろう・・・と『沖縄行き』を決意!
沖縄時代
沖縄に移住してまず困ったのが『方言』!
コンビニでレジ待ちしていたら、前のおじちゃんが『?✕☆+@♪〇』って言ったんです(゚Д゚;)聞き取れない
店員さんは何も言わず、たばこ『マイルドセブン スーパーライト』を出しました…
はい?(;゚Д゚)
「ここは『アメリカ』よりも言葉の壁がある!」と思ったことを覚えています(ー_ー)!!
なので、当分は病院勤務は無理だろうと判断。
高齢者が多くいるであろう病院では、患者さんの訴えも聞き取れない!
たまたま、住んだアパートから徒歩5分程度のところに『健診センター』があったんです
しかも、看護師ではなく保健師を募集中!
まぁ、保健師で働いたことないけど、健診センターの保健師なら高齢者と接する機会は多くないだろうと思い、話だけでも…と思い面接を受けたら、「来週から来れる?」と聞かれびっくりΣ(゚Д゚)ハイ?
当時、健診センターに保健師は1人だけ…
ある企業からの依頼で毎週水・木曜日だけ『産業保健師』として、センターからその会社に派遣していたのですが、その保健師さんが産休と同時に退職することになり、後釜がおらず困っていたらしいのです。
入社してすぐにその会社に車で連れていかれ、そこで初めて前任の保健師さんとご対面。「私、保健師業務したことないんです(゚Д゚;)』という私に『大丈夫、大丈夫。』と1時間程度の引継ぎで終了・・・
前任の保健師さんも沖縄の方ではなく、出産を機に本州に戻るとのこと。
一応、連絡先を教えていただき、数回電話で業務を教えていただきましたが、あとはその会社の方と相談しながら業務を進めていきましたね(^▽^;)
それ以外の曜日は、健診センター内で看護師業務。
採血や心電図、診察介助、健康指導などが主な業務…
方言問題に話は戻りますが、受診者よりも誰よりも、方言が強かったのが石垣島出身の看護師長さんでした(;´∀`)
そして沖縄って正直、お給料安いんですよ!
健診センターはもちろん夜勤もないので、ものすごく安かったです( ̄▽ ̄;)
なのでもう一度、夜勤のある病院に勤務しようと約2年半勤めた健診センターを辞め、転職を決意!
アパートから車で15分程度のところに、心臓カテーテル検査・アブレーション治療をしている病院の存在を知っていたので、再び循環器関連の病院へ再就職。
そこの病院は病棟が3階と4階の2フロワーしかない100床程度の病院。
3階病棟はHCU5床を含む「一般病棟」で、4階病棟は「療養病棟」でした。
私はそこの一般病棟で約7年半、勤めることに(^▽^;)
そのうちのほとんどが「HCU」担当でした。
沖縄という地域は、本当に郷土愛に溢れていて、環境に対しても人に対しても情が深い人が多い…はじめは「沖縄人」でないと判かるとある一定の距離を置かれる感覚があったのですが、「仲間」になるとこれでもかってくらい愛情を注いでくれます
私は沖縄の環境、暮らし、気候、そして何より人間が大好きです☆
沖縄で暮らして約8年が経過したころ、両親が初めて沖縄に遊びに来てくれました。
久しぶりに会った両親は私が想像していたより歳を取っていました。
電話の会話では気づかない両親の老化に内心驚きました…
私は両親が大好きです。
大学にも行かせてくれて、しかも私のわがままでアメリカにも行かせてくれた…
私は帰国後も東京や沖縄と好き勝手に移住して、独り気ままに暮らしていた。
私が好き勝手に生きている間に、気づけば大好きな両親は70歳を超えていた…
このまま私は独り自由に暮らしていていいのだろうか・・・
もし両親が病気にでもなったとき、私は後悔しないだろうか・・・
もっと両親と一緒に過ごしたい!
両親のためではない…
自分のために、後悔しないように、両親との時間を大切にしたい!
そう思い、実家のある静岡に戻る決意をしたのが40歳のときでした。
静岡県時代
地元に戻って勤める病院のあてはなかったのですが、まぁ、新しく総合病院もできたようだし、落ち着いたら実家から通えるその総合病院にでも勤めようかなって軽く思っていました。
いざ、その総合病院の募集要項をみると、
応募条件:40歳未満
ハイ?(;゚Д゚)年齢制限アリ?
初めて引っかかる年齢問題…
あぁ、今までは私が病院を選んでいたのに、とうとうそういうわけにいかなくなった(;´д`)トホホ
社会人になって実家で暮らしたことがないので、周辺の病院事情がよくわからない!
いくつかある転職サポートの中で口コミの良かった『看護roo!』に登録し、希望の条件を伝え、当てはまる病院をいくつか教えてもらった。
結局、実家から車でスムーズにいけば45分程度のところにある救急病院に再就職。実家から3つ先の市町村で、なんとか通えないこともないけど、通勤ラッシュなどを考えると何時に出ればいいのか予測もつかない…
休みのときに実家に帰ればいいか…と思い、病院の敷地内にある独身寮に入りました。
寮も楽しいですよ☆
同じ病棟の寮生同士で一緒に飲んだり、寮生でない友達も一緒に飲んで翌日寮から出勤したりと( *´艸`)
その後、私の部屋は『Bar 308』(308号室だったので)と呼ばれ、飲んだくれが集まる部屋となりました♪
40歳過ぎてから入職したので、みんなとうまく馴染めるか心配でしたが、ちょうど入職日に他の病棟から異動になった看護師が同じ歳で、病院のいろいろはその看護師に教えてもらいました!
彼女はとても前向きで明るく、ざっくばらんな看護師(゚∀゚)☆
彼女を慕う後輩ナースも多く、私は彼女のおかげで周囲と早く馴染めたと今でも感謝しています。
その後、私は入職したその病棟で10歳年下の旦那さんと出会い、結婚…
約7年循環器病棟に勤め、去年退職し、今に至ってます。
もちろん、同じ歳のその看護師とは今でも仲良し(゚∀゚)♪
定期的に我が家で飲み会をしています☆
最後に…
『看護師』の資格があれば、全国どこでも働くことが可能。
年齢制限がある病院もありますが、看護師の資格に有効期限はありません!
もし、あなたが今の病院で心地よくないのならば、飛び出してみるのもひとつの手…
同じ病院で働き続けることもすごいことですが、職場環境が変わると同じ看護師でも本当に働き方が違う!
雑務が多くて、看護業務以外もしないといけない病院
他部門のスタッフとの連携が取れていて、病院自体が職種関係なく仲がいい病院
サービス残業が当たり前の病院
給料がいい病院、悪い病院 など
あなたにとって心地いい病院、充実できる病院、働きやすい病院を求めて、行動に起こすことがいけないなんてことはない!
自分に合っている病院かどうかは正直、働いてみないとわからないですもんね(*´ω`*)
現に私は何度も転職しましたし(^_-)-☆
そのおかげで、今では友達自身の転職も加わり、北海道から沖縄まで友達がいます!
転職したときに私が心に留めていたことは・・・
■年齢、職種関係なく、自分より先に入職している人は『先輩』と思うこと
■「教えていただく」という姿勢で相手と接すること
■必ずどこにでも、自分と合う人、合わない人がいることを理解し、卑屈にならないこと
今回は5回の転職経験を持つ『おばちゃんナースの放浪記』話でしたm(_ _)m♪
コメント